心拍数を上げろ(2)
昨日に引き続き、本日も朝、筋トレの後ランニングマシーンで時速23kmで走ってきた。やはり走った後は、汗をかいて爽やかに気分になった。
しかし、心拍数を上げるという点からすると全速力で走るよりも中程度の強度の有酸素を30分程度行うのがいいのかもしれない。
そもそも、心拍数が上がる原理は、体の酸素の需要に対して供給が追いつかないために、心拍を上げその分多くの血液を送ることで酸素の需要を満たすことである。
その点で言うと、一瞬の高度の酸素の不足状態よりも高度でなくとも持続する酸素の不足状態の方が心拍数を上げると思われる。全力疾走だと一瞬、高度の需要があったとしてのそれを満たすために心拍数を上げようとしても需要が一瞬のため心拍数が上がりきる前に需要が終わってしまう。実際に今日はかってみたが120程度までしか上がらなかった。一方、高度でなくとも持続する運動だと酸素不足を改善しようと心拍数を上げに上げてくると思う。
今度は、持続する酸素不足状態を作り出してその時に心拍数を計測しようと思う。過去には160程度まで上げられてと思う。
人間の最大心拍数は220-年齢といわれている。
今の自分だと200まで心拍数を上げられると言うことになる
そもそもこの220はどこから来た数字なのだろうか
早速ジムに行って、中強度の有酸素トレーニングをしてきた。メニューは3-4インターバルのエアロバイクを25分程度行い、最高心拍数が160に到達した。めっちゃ汗をかいて爽快な気分になった。ゼイゼイ言いながら運動するのは気持ちよかった。
やはり心拍数が上がっているときはそのことだけに集中することができよかった。
他の方法での心拍数の上昇も試してみたい。
心拍数を上げろ!
以前書いた、心拍数を上げると生きている実感がする内容のブログを読んだ。
過去の自分と会話している感じで楽しかった。
こういう風に、その時の時ぶんをンブログに示し後から読み返すのはいいことだ。
それはそうとして、今回は心拍数を上げる行動にフォーカスしていきたい。
心拍数を上げるであろう行動をして、その過程での自分の気持ちや結果を記録していきたい。少し、実験的な内容の記事になるだろう。良ければシリーズ化もできるかもしれない。
今回の心拍数を上げる行動は
「全力で走る」
身近で手軽に行え誰でもまねができる点で第1回目としてはコレが最適だろう。
シリーズ化すればいろんな種類の心拍数を上げてみたい。
今回の上げ方を分類するなら、肉体的な負荷に当たるだろう。
公演やプレゼンは精神的負荷
犯罪行為は、背徳的負荷と言ったように心拍数の上げ方にも種類がある。
肉体的は少し大きいくくりかもしれない、アドレナリンの静注で心拍数が上がるの肉体的負荷に分類されるから、それとコレを同じカテゴリーで分類するのは違う。
まあ分類は最初は大雑把で、種類が増えてきてから事細かに決めるとして、いったんは肉体的負荷という分不意で我慢しておくこととしよう。
早速明日、ジムのランニングマシーンで全力で走ってこようと思う。
ではまた明日。
今日早速、筋トレの後ランニングマシーンで走ってみた。
全力疾走ではなかった。というのも、ランニングマシーンの最高速度が19.3kmだったからだ。まあそれでもこのスピードで1分も走れば全力疾走した状態と同じになる。
結果は、とても爽快な気持ちになった。いい汗をかき、心臓が波打っているのを感じた。さらに今日一日振り返ってみても、とても充実した一日を過ごせたと思う。コレは、朝に心拍数をぶち上げた影響なのかもしれない。
仮説として、心拍数を一定以上ぶち上げたら、身体がある種のトランス状態やスーパーモードといった状態に入ってぶち上げてから一定の時間、活力が皆いるのかもしれない。この状態を、ビーティングモードと呼ぶことにする。
飛行機も、離陸の時に一番エネルギーを使う。スーパーサイヤ人も返信するときに一番力を込めて一度なってしまえば後はけろっとしている。それらと同じように回心拍数をぶち上げたら、後は通常の心拍数に戻ったとしてもある一定の時間はビーティングモードでいられるのかもしれない。医学的には、ホルモンで説明できそうな感じもする。一定の心拍数を超えると何かホルモンが分弼されて、それの半減期がとかで数時間は同じ状態で入れるとか。
今後の方針としては
・心拍数を上げる別の方法を試す。コレは一旦置いておいて下のビーティングモード関連から確かめていこうと思う。
・朝心拍数を上げると毎回、ビーティングモードに突入できるのかどうか。
とりあえず、心拍数関連の最初の記事はこんなところで終わる。
また、第Ⅱ段が上がるかもしれない
乞うご期待を!
メリハリ
夕飯の時に、お酒を飲んでみた。
筋トレを初めて苛、ここ3年近くお酒を飲んだのは片手で数えられるくらいだろう。
そんな僕が、自ら進んでお酒を飲んだ。
お酒は漠然と悪いイメージがある。
アル中、怠惰、自制できていないといったていたらくの印象だ。
コレを利用した。
お酒を飲む代わりに、その日一日ハリのあるように過ごそうと思えた。実習が終わっても6時まで図書館で勉強したり。食後だらだらせずすぐに継ぎすべきことに取りかかったりするようになった。それも、夕食時に酒を飲めるという緩みがあるからだ。に柱は頑張って夜リラックスする。
生活にメリハリがついた。
今までは、ただずっとがむしゃらにストイックに頑張って、ストレスをため込んでいた。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
サッカーボールを蹴るのもただ強く蹴ればいいというものではない、その場面にあった適切な力で蹴ることが重要だ。
人生もそうだ、ずっと気張ってばかりいてはうまくいくものもうまくはいかない
どこかで適度にゆるめ体を休める必要がある。
最近意識している心拍数もそうだ。常に心拍数を上げっぱなしだと体が持たない。適度に上げることで生き午後値を感じる。
メリハリは僕に足りていない考えの一つだった。0か100ではないそんなこといろんな本やドラマで聞いてきた。でも身についていなかった。実践してその恩恵を自分で感じることでその言葉の意味を理解することができた。
人間が楽しい野辛いと感じるのは全て相対的だ。辛いことがあるから楽しいと感じれる。ブスがいるから美人がいる。100メートル10秒が速いと感じるのは他の人と相対的に比較することで初めて速いと言える。
生活のなかで様々な波を起こして見よう。
・心拍数
・夕食時のお酒
自分をわざと辛い環境に置く、しんどいことや嫌だと思うことを進んでやる。そうすれば普通の状態が幸せと感じれるし、幸せな状態もさらに幸せと感じることができる。
気負わなくていい、少し力を抜いて落ち着いて努力するのも時には重要なことだ。
梅雨入り
梅雨に入った。
雨の日や、重たい雲が今にも落ちてきそうなどんよりとした日が続く。
気分も知らず知らずのうちに落ち込んで言ってしまう。
意識的に気分が落ち込まないように、そして気分を挙げるように意識していく必要がある。
気分を落ち込ませないために
・外出する(図書館、日光浴)
テンションを上げるために
・部屋の掃除をする
・自己規律
・笑顔を意識して機嫌良く
疲れているときや、なんだか思うように勉強に集中できないとき、気分替えと言ってだらだらスマホをいじってしまう。その流れコンテンツ上に隠れているエロいコンテンツを見てしまいもういいかと思って、シコってしまう。
シコる前はもシコったら気分も変わって頑張れると思っているが、結局その後はだらだらして時間を過ごすのだ。だったらシコらずにだらだら昼寝でもしていた方がいい。どのみち、だらだらするくらいならシコらずに自己規律を守った方がいい。
日光浴を最近始めた。といってもこの時期は毎年、肌を焼こうと思うのだ。
せっかく日光浴をしたいのに雨や曇りの日が多くて、結局やらなくなって次の年を迎えている。何も成長してないな。
日光浴は、テストステロンも分泌され筋肉にいいし気分も良くなる。肌も健康的に焼け見た目的にもいい。やれば理想の自分に近づける今年こそは継続していきたい。
そのために、日光浴の場所を近場に変えた。今までは、車で片道30分かかっていて遠さがネックだった。今年は、車で10分もかからない。コレなら継続できるかもしれない。
継続のコツは、継続しやすい環境を作ることだ。
環境がその人を作るという言葉もあるように
環境にこだわってみたい。
ふぬけた顔の青年が6ヶ月戦地に行っただけで、精悍な顔つきになったりする。
あの青年がそれまで通りの生ぬるい環境で生きていればあんな顔つきにはならなかっただろう。
今の俺もあの青年と同じだ。いい顔つきになるには環境を変える必要がある。
どんな環境に飛び込めばいいのか
それは、心拍数の上がるような環境だ。心臓が、緊張と興奮でドクドク波打つような一つ一つの判断が大きな結果に直結するような環境に身を置け。心拍数を上げることが退屈な人生を脱却する方法だ。
退屈な梅雨が明けたとき、夏が来る。
夏に向け環境を用意しろ。
この前、サッカーノー審判をした。自分の判断で大きくプレーを左右する。ハンドやろとか、ファールやろという抗議の声が飛んできた。その時俺は、早く終わらないかなと縮こまってしまっていた。間違ってしまわないか不安だった。その不安な状況を楽しめないか。心拍数は上がっていた。でもマイナスの方に作用宇していた。プラスの方に生かせたら少しはいい顔つきになれるだろう。
他人と自分
僕は、自分が他人よりも優れていると思って今まで生きてきた。
背も高く、頭もいい、筋肉もあってスタイルもいい、お金にも余裕がある。
何より、普通の人では思いもよらない角度から、物事を捕らえることができる。
そう思っていた。
でも、実際自分は平凡な人なのかもしれない。
自分のことが好きだから、自分が人よりも優れている様に思えるだけで
他人に僕みたいな人がいても、僕はその人のことを非凡だとは思わないと思う。
他人が見ている僕と、僕が見ている僕は違う。
同じように僕が見る他人と、その人が見るその人は違う。
自分のなかで考えていることも、外に発信しないと外から見たら何も考えていないのと同じだ。
考えをアウトプットする必要がある。ブログのように言語化するもいいし、歌や絵などの芸術もある。
自分が天才だと言うことを証明してみせる。
平凡で終わりたくない。
少しいい人と結婚して、少しいい家に住んで少しいい車に乗って少しいい人生を送る。そんな人生で終わりたくない。何か、何か、爆発的なことがしたい。
同じような毎日は送りたくない
退屈は嫌だ。刺激がほしい。今日は、昨日の延長戦じゃない。
今日は二度と来ない日なんだ、昨日や過去とは完全に独立して、コレまでとは違う時なんだ。そうだとはわかっている、でもコレまでと何の変化もない一日を今日も送ってしまう。頭では変わりたい、刺激がほしい何かすごいことがしたいと考えているのに、昼寝で時間を潰し、Netflixやユーチューブなど無意味な娯楽で時間を潰してしまう。
高校生の頃憧れていた、生活はこんなのじゃなかった。
他人と関わるときもそうだ。どこか線を引いてそれ以上は踏み込ませないように壁を作ってしまう。僕は、臆病者なんだろう。自分に才能が無いことや、そこらにいるたいしたことないやつと何ら変わりないことを認めたくない、そういう風に思われたくない。だから、全力を出さないでいる。全力を出した自分が、程度のしれた存在だったときに、それを受け入れるのが怖いからだ。
心拍数と生きがい
何のために生きているのかわからなくなった。
別に嫌なことがあるわけではない。
お金にも不自由していない。
生きたい大学にも行けた、これといった不安や不満があるわけではないが
生きている意味がわからなくなった。
気づいたときには毎日大体同じような生活を繰り返して、
人生が退屈だと思うようになっていた。
過去を振り返り、充実していたと感じるのは2浪時代だ。
2浪の時は、センター試験で高得点をとって医学部に合格するという明確な目的を持って毎日を過ごしていた。だから、当時は自分の生活に疑問もなくまっすぐに目標を達成するために生きていた。
受験が終わり、目標がなくなった。
いわゆる燃え尽き症候群なのだろうか。
生活に張りがなく、ただ時間だけが過ぎていった。
だが、そんな生活の中でも生きていることを実感できる瞬間はあった。
筋トレをしているときだ。
筋トレをしているときは、目の前のおもりに集中して何も考えなくてすんだ。
そして、筋トレで全力を出し切って心臓がバクバクなっているときほど生きているという実感が湧いた。
筋トレの他にも、プレゼンするときや人前に出るときも同様に生きていると感じた。
プレゼンを終えたときは、軽く冷や汗のような物をかき一時的に満たされた。
これらに共通することは、【心拍数】ではないかという仮設を立てた。
たしかに興奮や恐怖によって心拍数が上がっているとき、生きている実感が湧きそうな気がした。
とにかく心拍数を上げるように生きることを目標に生活してみた。
山に登ったり、積極的に発言したり人と関わる様にしてみた。
すると、退屈だと思っていた生活にわずかながら張りが生まれた。
しかし、まただんだんとその生活に慣れ退屈を感じるようになった。
心拍数を上げるという要素は生きがいにとって必要な要素であることはわかったがそれだけでは十分ではないようだ。そもそも人間は適応能力に長ける生物なのだから、生きがいや目標があってもだんだんと慣れ、退屈になるのではないだろうか。
退屈とは慣れから生じ、慣れは現状維持の結果生じる。
つまり生きがいなんて物があったとしてもやがてその環境に慣れてしまう。
生きがい探しなんてするのは無駄だ。
人生において、その都度その都度新しい心拍数の上がるような目標をたて生活する。
人生が退屈だと感じるのは、停滞している証拠だ。現状維持は男の恥だ。
何について書いているのか良くわからなくなってきたが
ブログ始めたばかりだし、完璧なんて求めなくてもいいだろう。
完璧じゃなくてもいい、新しいことに挑戦し新たな刺激を求め
心拍数を上げて生きたい。
髪をセットする理由
僕は毎日、ワックスとジェルを使って髪をセットする。
大学がある日や、人と会う予定があるときはもちろん
何も予定のない日でも髪をセットする。
髪をセットするのは時間もかかるし、ワックスやジェルによって髪の毛にダメージが加わってハゲの原因になるかもしれない。
そんなデメリットを知った上でも僕は毎日髪をセットする。
その理由は、
自信がついて人とうまくコミュニケーションがとれたり、
テンションが上がったり、モテたりするからだ。
などというありきたりな理由ではない。
もし、今日死ぬならどんな風に過ごすか。
おそらく一般人は、好きなだけ好きなものを食べたり、お金を全部使ったり、大切な人と会ったりして過ごすと答える。
では、もし今日死ぬならどんな状態で死にたいか。
こう聞くと一般人は、好きな人と抱き合いながらや、
ベットで眠るようにしてと答える。
私は、
一日を全力で生き最高な状態で死にたい
と答える。
もし今日死ぬのなら、自分ができる限りの最高な自分で死にたい。
最高な自分は髪の毛くらいきちんとセットしている。
どうせ今日死ぬのだから、髪の毛のダメージなんてどうでもいい。
毎日を、今日死ぬかのように生きろ。よく小説や映画で含蓄のありそうな人が名言っぽく言っているので、一般人の読者諸君でも一度は聞いたことはあるだろう。
だが実際、死を意識して生きるのはせいぜいその数日間くらいだろう。
死は突然訪れる。今日事故に遭って死ぬかもしれない。
心臓発作で突然死するかもしれない。
当たり前のように明日があると思っているが、人生は突然終わる。
誰だって予想はできない。
死を意識する。
そのために、僕は髪の毛をセットしている。
今日死ぬかもしれないと思い、最高の自分になるために髪をセットする。
髪をセットする、そうすることで死を意識し生を感じることができる。
少なくとも、髪の毛をセットしている瞬間は死を意識し、生を謳歌していると言えるだろう。