心拍数と生きがい

何のために生きているのかわからなくなった。

別に嫌なことがあるわけではない。

お金にも不自由していない。

生きたい大学にも行けた、これといった不安や不満があるわけではないが

生きている意味がわからなくなった。

気づいたときには毎日大体同じような生活を繰り返して、

人生が退屈だと思うようになっていた。

 

過去を振り返り、充実していたと感じるのは2浪時代だ。

2浪の時は、センター試験で高得点をとって医学部に合格するという明確な目的を持って毎日を過ごしていた。だから、当時は自分の生活に疑問もなくまっすぐに目標を達成するために生きていた。

受験が終わり、目標がなくなった。

いわゆる燃え尽き症候群なのだろうか。

生活に張りがなく、ただ時間だけが過ぎていった。

 

だが、そんな生活の中でも生きていることを実感できる瞬間はあった。

筋トレをしているときだ。

筋トレをしているときは、目の前のおもりに集中して何も考えなくてすんだ。

そして、筋トレで全力を出し切って心臓がバクバクなっているときほど生きているという実感が湧いた。

筋トレの他にも、プレゼンするときや人前に出るときも同様に生きていると感じた。

プレゼンを終えたときは、軽く冷や汗のような物をかき一時的に満たされた。

これらに共通することは、【心拍数】ではないかという仮設を立てた。

たしかに興奮や恐怖によって心拍数が上がっているとき、生きている実感が湧きそうな気がした。

 

とにかく心拍数を上げるように生きることを目標に生活してみた。

山に登ったり、積極的に発言したり人と関わる様にしてみた。

すると、退屈だと思っていた生活にわずかながら張りが生まれた。

しかし、まただんだんとその生活に慣れ退屈を感じるようになった。

 

心拍数を上げるという要素は生きがいにとって必要な要素であることはわかったがそれだけでは十分ではないようだ。そもそも人間は適応能力に長ける生物なのだから、生きがいや目標があってもだんだんと慣れ、退屈になるのではないだろうか。

退屈とは慣れから生じ、慣れは現状維持の結果生じる。

つまり生きがいなんて物があったとしてもやがてその環境に慣れてしまう。

生きがい探しなんてするのは無駄だ。

人生において、その都度その都度新しい心拍数の上がるような目標をたて生活する。

人生が退屈だと感じるのは、停滞している証拠だ。現状維持は男の恥だ。

 

何について書いているのか良くわからなくなってきたが

ブログ始めたばかりだし、完璧なんて求めなくてもいいだろう。

完璧じゃなくてもいい、新しいことに挑戦し新たな刺激を求め

心拍数を上げて生きたい。